水戸学の謎を探る(俺の妄想)

茨城の近世史はそのまま水戸藩の歴史と言っても過言ではあるまい。

作家の司馬遼太郎は近現代の歴史の始まりはいつも水戸と語った。桜田門外ノ変、血盟団事件、2.26事件、5.15事件、歴史の分岐点になる血生臭い大事件には必ずとってていいほど水戸に関係のある人間が関わっている。その根底にあるのは吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士たちに多大な影響を与えた水戸学であることは想像するに難くないが、では何故水戸では独自の文化が形成されていったのであろうか。

第9代藩主徳川斉昭はあくまでも我々は天皇家の陪臣、徳川宗家と天皇家がひとたび戦になれば徳川宗家を打ち滅ぼさなければならないと公言して憚らなかった。

この過激な思想の源流は家康の第11男である初代藩主徳川頼房まで遡る。水戸藩の石高は尾張藩の62万石、紀州藩の56万石と比較しても35万石と圧倒的に少ない。家康に欲しいものを聞かれたとき、迷わず、天下と答えた初代藩主頼房は乱を起こすおそれがありと家康に疎まれたため、他の御三家より石高を大幅に減らされたというのが通史であるが自分はこの考えに懐疑的である。

近世から現代に掛けもっともすぐれた政治家を一人選べと言われれば間違いなく自分は家康を挙げる。徹底した鎖国政策により、明治維新時には欧米より産業の分野で百年遅れをとった日本であるが260年も間、大きな戦もなく天下泰平の世を謳歌できたのも家康によって綿密に練られた政策が礎にあったからこそである。

思うに家康はいくら自分が盤石の体制を築いたとしてもいつかは予期せぬ出来事が起こり、徳川家の崩壊の危機が訪れることは絶対にあるはずと踏んでいたのではないかと思うのだ。つまり、内部分裂であったり、天皇家との騒乱であったり、不測の事態がいつ起こるとも限らない。

そのとき、皆が皆、徳川宗家についてしまった場合どうなるか?うまく事態を治め、また徳川時代が存続出来るならよいが、散々負け戦を被った家康である、命からがら逃げ落ちたのも一度や二度でない、戦は所詮水物、いつ徳川家が賊軍の汚名を着せられるかは分からない。もしその時、敵方に徳川の誰かがついていれば徳川が滅ぶことはないと考えたのではないか。そのための役割を水戸に託したのでないかと思うのだが考えすぎであろうか。

top_asa_pict01最後の将軍慶喜の晩年、渋い!!

信州上田の真田家には散々苦汁を飲まされた家康である。息子の二代将軍秀忠は真田を落とせず関ヶ原の大一番に遅刻をしてしまうという大失態をやらかしてしまう。また、家康自身も大阪夏の陣では真田幸村に追い詰められ、さしもの家康も自刃用の小太刀を用意したという。そこまで徳川家に抵抗をする真田家であったが嫡子の真田信之は関ヶ原の戦いでは東軍家康方についているのである。いろいろ説はあるが父昌幸のどちらか一方は滅んでも真田家は滅びないで済むという、老獪な策略があったため、昌幸は信之を東軍につけたというのだ。あながち見当違いな話ではあるまい。当時は徳川にせよ、豊臣にせよ、よくよく混沌とした時代で一寸先は闇、誰にも読めなかったのである。

この真田の策略を敵ながらあっぱれと感じていた家康が見習って徳川頼房に託したのではないか。もちろんなんの証拠もないが、頼房に波乱の相があるのなら慎重さに掛けては他に並ぶものがない家康である、江戸から百キロしか離れていない水戸なんぞにわざわざ不穏分子である頼房を配置するであろうか。確かに天下を乱す怖れありと、一定の危惧を抱いたのももちろん事実であろう。しかし、反面、徳川家の未来を託したのもまた事実ではないかと思うのだがどうだろう。

最後の将軍慶喜は水戸出身の将軍である。大阪城から家臣たちを置き去りにして逃げ帰り、どちらかと言えば優柔不断で頼りがいのないリーダーだと、酷評されることが多いが決して自分はそうは思わない。慶喜は最後迄恭順の意を貫った結果、徳川家は明治以降もお家取り潰しの憂き目にあうことはなく、徳川慶喜は明治35年(1902年)には公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員(今の参議院議員)にまで就いているのだ。徳川政権は確かに滅んだが徳川家はこうして現代にまで脈々と息づいているのである。

これだって水戸学の源流が慶喜に流れていたからこそだと思うのだ。歴史のタラレバ論は不毛だがもし慶喜が徳川宗家の立場に立ち、徹底抗戦を貫いていたら徳川家は完全に滅んでいたかもしれないではないか。

取り留めもない話になってしまったが自分は勝手にそう思っている。まったく見当違いな話ならごめんなさい(笑)。

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